チベット人の思惟方法

来週ラダックに行く予習のつもりで、中村元の「チベット人の思惟方法」を読んでみた。
チベットに抱いていた幻想を打ち砕く内容で、面白かった。

とは言え、そもそも、わたしはチベットについて何も知らないし、密教とか神秘主義とかにもそれほど興味は無い。ではなぜ行こうと思ったかと言えば、旅行経験の豊富な人たちがチベットはイイと言っているのを何度か聞いた事があったのと、20年くらい前に見た敦煌の莫高窟の密教図像が強烈だった事がある。
くわえて、わたしの中だけのゲームのようなルールのようなものとして、旅行した時に次の旅行のヒントを受け取るというのをやるようにしていて、(客観的に見ればそれは単なる思い込みなのだが、)例えば、最初のインド旅行で南インドから来たおばあちゃん2人の観光客に「次は南インドに来なさい」と言われたので、実際2度目のインドは南に行ったりというような事である。
で、その前回の南インド旅行ではチベットから亡命して来たらしいラマ僧に何度もあったので、次はラダックかもと思い込んだ訳である。

だから、チベットに対する理解はほとんどそこら辺のアメリカ人と同じ程度に貧困である。つまり、チベットって、何だか神聖で不思議な場所なんだろうなあと漠然と思っていた訳だが、それは、部外者のとってもおめでたい勘違いというものだろう。

経典を非常に重視し体系的論理的に血肉となるように学んだり、一方で観念的哲学でなく身体やセックスを高く位置付ける修行や、呪術的な力を尊ぶ姿勢など、論理の重視と神秘主義の同居というチベット人の一見矛盾しているような謎めいた傾向は、実はどれも「厳しい自然環境の中で生き抜くために実践的な知識が必要だった」という点から見直すとかなり合理的かつ直截的な選択だったと理解出来る。

中村元を読むと「学者って偉いんだなあ」とか「知識て大切なんだなあ」とか素直に思う。
わたしが知らないだけかもしれなが、今はそうゆう偉い学者があまりいないようで残念である。

いずれにしても、実際行ってみて何を感じるか今から楽しみである。
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# by hipoiho | 2017-06-10 23:17 |

茶の湯展

茶の湯展を見た。
なんかとってもラジカルでスノッブ。
小難しくて、スケールでかくて、かっこいい。
これだけ美学自体を問うた美の世界って他にあまり思いつかない。


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# by hipoiho | 2017-06-09 08:48 | 鑑賞など

「ビジネス」とやら

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「他者とは地獄だ。」
とは、今朝のような事を言うのだろうか。
その人たちが言うところの「ビジネス」とやらに彼らの言うような生きる教訓といったものが自分には何一つ感じとれないし、実際そういったことに将来面白みを見出せるとも思わない。
自分がそれらにどうやら関わっているという不愉快な事実が理解出来るのみである。

そんな事を思いながら、「ビジネス」とやらのおかげで、せっかく名古屋にいるので、味噌煮込みうどんをいただき、神曲の地獄篇のつづきを読む。



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# by hipoiho | 2017-05-27 10:53 | 日々

ベンノ・フォン・アルチンボルディについ

以前に「2666」の感想を書いたのだが、実は重要な部分を書き残している。それはアルチンボルディに関する部分であるが、内容が果てしなく、謎も多く、まだ自分の中で消化しきれていない。しかし、忘れないように自分のために書き留めておく。わたしにとっては、ボルヘスの「伝奇集」、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」をはじめて読んだとき以来の忘れられない読書となったのだから。
もし本を読まずにこのページを読む人があれば、「2666」のページであらすじを読んだ後でこのページを読んでほしい。以下ネタバレあり






 「数分で語り尽くせる着想を五百ページに渡って展開するのは労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。よりましな方法は、それらの書物がすでに存在すると見せかけて、要約や注釈を差しだすことだ。」
とは、ボルヘスの伝奇集の冒頭の有名な一節である。ボラーニョは当然この言葉を意識して「2666」を書いたと思う。ボラーニョが影響を受けたものの中にボルヘスの全作品と書いてあったし、読んでいても明らかにボルヘスのパロディと思われるところがあるし(「分岐する分岐」とか「無限の薔薇」とか、「ヴォルテール著作便覧」とか)、本文中にボルヘスの名前も数回は登場する。

 ボラーニョは「2666」でボルヘス言うところの狂気の沙汰を実行したわけだが、そこでなお完結しない。その膨大な地獄の物語の中になお「存在すると見せかけられた書物」を登場させるのである。「庭園」「革の仮面」「ヨーロッパの河川」「ミッチィの宝」「盲目の女」‥‥etc.といったアルチンボルディの書いた本、「批評家たちの部」に出てくる修道女の料理本「フアナ・イネス・デ・ラ・クルスの料理本」、「アマルフィターノの部」に出てくる「幾何学的遺言」、「フェイトの部」に出てくる「バリー・シーマンとスペアリブを」、「アルチンボルディの部」の「ヨーロッパ沿岸の動植物」などである。これらの本にどんなことが書いてあるのか、読者は探偵のように「2666」の中を注意深く進む必要がある。

 アルチンボルディの書いた本がどんな本であるかを知るには、5部を読んでから再度1部を読むのが良いかもしれない。まずは、アルチンボルディがどうやって生まれたのかを見てみよう。
 ハンス・ライターのペンネーム「ベンノ・フォン・アルチンボルディ」は、彼が自分の小説を清書して出版社に送るために、タイプライターを借りる際にとっさに思いついたものである。「ベンノ」は先住民族から選出された初のメキシコ大統領のベニート・フアレスから、「フォン」は少年時代にライターが働いていた屋敷の持ち主のフォン・ツンぺ男爵から、(というより、マドンナ的存在だったフォン・ツンペ男爵令嬢からかもしれないが、)「アルチンボディ」は、ミラノ出身のマニエリスムの画家ジュゼッペ・アルチンボルドから取られている。 
 5部の冒頭には、「1920年、ハンス・ライターが生まれた。赤ん坊というよりは海藻に見えた。」という記述がある。ライターは6歳の時に「ヨーロッパ沿岸の動植物」という本をはじめて盗んだ。本の内容を頭に叩き込み海に潜って海藻の森を観察したり、おぼれて死にそうになったりと、何かと海や河の底などの水の世界が出てくるのだが、これが何を意味するのか、創造や無意識やフィクションや芸術の領域のことかもしれないとも思うが、まだいまいちぴんときていない。また、ライターが海藻に似ているという記述がたびたび出てきたり、文中に出てくる小説の中に「海藻に似た宇宙人」というのが出てきたり、アルチンボルディの著作「分岐する分岐」は海藻の話だと書いてあったりするのだが、この「海藻」についても未だ謎である。ただ、アルチンボルディのイメージの一端はアルチンボルドのこの絵からきているのではと思ったりする。


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▲ジュゼッペ・アルチンボルド「水」1566年 ウィーン美術史美術館蔵 

女性の肖像画だし海藻でもないのだが。
いずれにしても小説家アルチンボルディは、アルチンボルドの絵のように寄せ集めで作られただまし絵の人物である事に違いはない。この「寄せ集め」で出来た小説家という事にボラーニョはかなりのこだわりがあるようなのである。

 以下はアルチンボルディにタイプライターを貸してくれた老人の言葉である。
「文学が広大な森だとするなら、傑作というのは湖や巨木や変わった木、美しく雄弁な花、あるいは隠れた洞穴だ。しかし森にはありふれた樹木や草や水たまりや寄生植物やキノコや野生の小花もある。私は間違っていた。本当のところ、マイナーな作品なんて存在しない。それはどういうことか。マイナーな作品の作者は誰彼ではないのだ。」たとえ、誰彼の妻が夫が書いていたのを見たと証言したとしても、マイナーな作品は、よく見ればわかることだが、彼らによって書かれていない。つまり、マイナー作家は自分の個性を消し催眠術にかかったまま、無意識で何かを書き取るようにして傑作を再生産しているのだ。さらに老人は言う。「あんたは盗作と言うだろうね。そう、盗作だ。すべてのマイナーな作品、マイナー作家のペンから生まれ出たすべての作品はどれか傑作の盗作に他ならないという意味でね」と。

 この老人の文学論は、ボラーニョが「2666」におびただしいパロディを散りばめていることとおそらく無関係ではない。 ボラーニョの場合、ある意図を実現する方法というよりは、もはや呼吸をするくらいに自然にパロディを出して来るので、どの部分がどのパロディか判別がつかない。また、パロディではなく実在の作家や作品、映画なんかもガンガン登場させるのだが、(例えば「リング」の貞子とか、「ツインピークス」まで、)内容を本物とずらしたり全く変えてしまう場合もあるので、それが引用だかパロディだか創作だか区別がつかない。実際、ノンフィクション作家のセルヒオ・ゴンザレスは死んでいないし、ロバート・ロドリゲスが酒漬け薬漬けの状態で幻のAVなんて本当に撮ったのだろうか?
 この方法のために、ボラーニョ独特の作家としてのつかめなさや、真面目なのか不謹慎なのか判断のつかないユーモアが生み出されているようにも感じる。いずれにせよ、「2666」は、ある読者にはマルケスやプイグの小説を思い出させ、ある人にはドストエフスキーやフォークナーを思い出させる。ある人は「ブリキの太鼓」や「魔の山」のある部分を思い出し、ある人は「神曲」のある部分を、あるいは作者を忘れた探偵小説のある部分を思い出す。
 
 そして、わたしはやはりボルヘスを思い出す。「バベルの図書館」をここに書くために10年ぶりくらいに読んでみた。
「その宇宙は(他の人びとはそれを図書館とよぶ)」から始まるごく短い観念的な小説である。その図書館はほぼ無限であらゆる本がある。図書館のどこかには「個人的または不変的なあらゆる問題の雄弁な解決」が書かれた本が存在するのだが、図書館はあまりに大きいので自分が探しているそれを見つける可能性はゼロに近い。図書館の本の1冊1冊はかけがえのないものではあるが、図書館は総体的であるから、常に数百数千の不完全な模写がある。それらは一文字か一コンマしかちがっていないのである。
「図書館は無限でしかも周期的である。もし永遠を旅する人がどの方向かにそれを横切るとすれば、数世紀後に、同じ本が同じ無秩序でくり返されているのを見出すだろう。その無秩序は、くり返されて、秩序を構成するだろう。秩序そのものを。」
 やはり、タイプライターの老人の文学論と似ていると思う。しかし、それよりも、読んで驚いたのは次の内容があったことだ。

 この図書館の中にはその本以外のすべての概要を書いた本があって、その本を精読した図書館員が今や神に相似しているのだが、その図書館員の住む秘密の場所がどこなのかを突き止めるための遡行の方法をある者が考え出した。
「本Aを突き止めるために、最初Aの位置を指す本Bに当たる。本Bをつきとめるために、まずCに当たる。こうして無限に続けてゆく‥‥。わたしはこれしきの冒険のために年月を浪費し使いはたしてしまった。わたしは、宇宙のどこかの棚に全き本がのっているということがありそうもないこととは思えないのだ。わたしは未知の神に祈る。たとえ、たった一人の人間でも、そしてまた、何千年の昔であろうとも!―だれかがそれを調べ読んだことを。もし名誉と知恵と幸福とがわたしのものではないならば、他の者のものたらしめよ。わたしの場所は地獄にあろうとも、天国は存在せんことを。わが身はふみにじられ滅ぼされようとも、御身の大いなる図書館は、ひとつの瞬間に、ひとりの存在のなかに、正当化されんことを。」
 
 これこそ、「2666」の真のテーマではなかったか?
(または「このパロディこそ」と言うべきか。)
 「2666」を読んだことで気付かぬ間に「バベルの図書館」の内容が変わってしまったような幻惑を覚えた。「2666」も「バベルの図書館」も開かれたテクストなのだ。誰だって好きなように読み間違うことが可能だし、永遠に遡行することだってできる。
 ちなみに未だによくわからない象徴として「海の底」以外に「星空」がある。アルチンボルディが妻のインゲボルグとともに切り立った崖から満天の星空を見る場面は儚く美しいと同時にメタフォリカルな意味も込められているに違いないと思うのだが、バベルの図書館が宇宙だとすれば、何かそういった遥かなものなのかもしれない。
 それにしても「2666」が5冊バラバラに出版されなくてよかった。この本が1冊にまとまっていなければすべての部を読まなかったろうし、こんなかたちでボルヘスを読みかえしてみることもなかった。


 ところで、ボラーニョの描写のユニークさについても触れておきたい。語りの面白さに引き込まれてどんどん読んでしまうので気づきにくいのだが、ふと立ち止まってボラーニョの描写をよく見ると絵画的なのだ。
 実際、ロバート・ロドリゲスの幻の映像の描写はベーコンの絵のように強烈だったし、フェイトの部は時々エドワード・ホッパーの絵のようであったし、部下に磔にされたエントレスク将軍はグリューネヴァルトの磔刑図みたいだと感じた。
 描写を絵画的と感じさせるのは、対象との位置関係が常に一定であるからかもしれないし、細部にわたってメタファーがちりばめられているからかもしれないし、音が消え、時間が急にゆっくりになるような感覚があるからかもしれない。原文では、きっと詩人特有の言葉の触り方をしているにちがいないと想像する。言葉が純度の高い結晶か何かのように物性をおびて、見る者と対峙してくるように感じるのだ。これは、ガルシアマルケスの圧倒的な映像で包み込んでくるような描写と対照的である。
 引用としての絵画や美術も数多く出てくる。特に後述するアンスキーの手記にはクールベやアルチンボルド、マレービチなど様々な美術作家が登場するし、2部に出てくるマルセル・デュシャンの象徴的な引用にいたっては、「ボラーニョはデュシャンのファンだったに違いない」という下世話な憶測をしたくなるくらいだ。また、「犯罪の部」の調書の繰り返しのような表現は、小説的ではなくむしろ美術やパフォーマンスの方法に近いと感じる。読まれる空間であると同時に、この世にそのような書物が存在しているということに重きを置いているような。
ボラーニョは創作を詩からはじめており、彼の世代の美術と詩がコンセプチュアルアートを通じて近しい関係にあった影響などもあるかもしれない。

 それから、あらゆるシュチュエーションで発揮される恐るべきボラーニョのユーモア。特に以下のシーン。

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1.アマルフィターノは上のような落書きを5個も6個も無意識に書くのだが、それを自身で考察してみる。最初は楽し気に。しかし、その内的考察はかなり長い時間、人に聞こえる声の独り言になっていたかもしれないと思いあたり、図を前にせずとも図に書かれた人物の会話が聞こえるようになり、ふと自分が狂っているかもしれないと思いあたる。そして、
「助けて。」
という声にならない叫びをあげる。

2.ライターの父が負傷し入院していた軍病院で隣のベッドの全身ぐるぐる巻きの包帯の男にたばこを吸わせると包帯の隙間とか耳とか鼻とか目から煙が漏れてくる。沸いてる、沸いてる、とライターの父は思う。
 
3.「犯罪の部」で、杭に寄りかかった酔っ払いの女性を裏返したら顔が赤と紫色の肉の塊で、まるで〈エル・トリート〉ラミレスと15ラウンド戦った後の様相だった。アイスキャンデーのワゴンに群がっていたハエが一斉に女性の方に移ってそれが死体だと分かる。あまりのひどい事態に、遺体を発見した包丁研ぎ師とアイスキャンデー売りは半狂乱で救急関係者ともめる。
 
4.マキラドーラのごみ収集所で見つかった遺体の立ち合いの場面で、あまりの臭さに最初全員鼻をつまんで現場に近づくのだが、多国籍企業のアメリカ人担当者が遺体を目の前にして鼻から手を離す。アメリカ人のその様子を見ると同じ会社の3人のメキシコ人たちも鼻をつまむのを一斉に止める。
 
 どれも全く笑えない場面だが、あまりの書かれ様に実はわたしはくすっとなった。そのあと自分が笑ったことも含めて背中に薄ら寒いものが湧き上がって来て、悪夢のように記憶にこびりついてしまった。毒が回るとはこのような感覚かもしれない。よく読むとこれらの細部が周到に選び抜かれたモチーフで出来ていることに気づくのである。
 

 さて、話を小説家アルチンボルディの誕生にもどそう。5部には、ハンス・ライターが作家アルチンボルディとなるきっかけを作った作家が出てくる。ユダヤ系ロシア人のボリス・アブラモビッチ・アンスキーである。ライターは喉に重症を負い前線を離脱してウクライナの村で療養するのだが、その時に寝起きしていた丸太小屋の暖炉に隠されていたアンスキーの手記を偶然発見する。療養の間、ライターはその手記を肌身離さず持ち歩き、暇を見つけては読み返すようになる。
 アンスキーはロシア人プロレタリアSF作家のイワノフのゴーストライターだった。この手記の内容は小説中の物語としてはかなり永く、延々と続き、アンスキーがゴーストライターとして書いたSFプロレタリア小説の奇妙なあらすじまで語られるので、ここで小説は三重の入れ子構造にふくれあがる。
 イワノフはアンスキーの作品のおかげで名声と地位を得るが、その後の情勢の変化によって逮捕されて処刑されてしまう。アンスキーも時代の激流に身を落としながら両親の住むこの丸太小屋までもどってくるのだが、この手記が隠されていた丸太小屋が今はドイツ軍に占領されていることを考えると、彼がここから逃げられたとしても、どこかで殺されてしまったに違いないとライターは思う。
 ライターは自分が撃って殺した敵の中にアンスキーがいなかった事を願う。ある日、ライターは夢を見る。自分が手あたり次第に撃って死んだ敵の中の一つのうつ伏せの遺体を裏返すとき、その遺体の顔がアンスキーかもしれないと恐れる。「いやだ、いやだ、僕はこんな重みには耐えられない。アンスキーに生きてほしい、死んでほしくない。」しかしそれはライター自身の顔だった。おそらくこの時、ライターはアンスキーから作家として生きることを引き受けたのではなかろうか。

 ライターは、自身の作家名の元となるジュゼッペ・アルチンボルドのこともこの手記の中ではじめて知る。信じがたいことだが、アンスキーは絶望を間近に感じるとアルチンボルドの絵を思い出していた。彼はアルチンボルドの絵の中に(特に四季を描いたものに)素朴という以外にふさわしい表現がない何かを見出していたというのである。現代人にとってはおおむねマニエリスムの爛熟によってもたらされた珍奇表現という受け取られ方をするアルチンボルドの絵画であるが、当時、画家本人はアレゴリー絵画として純粋に教訓を描いていた訳であるから、アンスキーの感じ方のほうが本来の姿なのかもしれない。
「アンスキーはミラノの画家の技法を幸福の擬人化だと感じた。うわべの終焉。人間以前の桃源郷。」アルチンボルドの絵を見ると悲しみや失意が消えうせて、モスクワにハッカの香りのする風が吹いたように感じると言うのだ。様々な地獄を描いて来た「2666」であるが、ここに至って「幸福」という言葉が顔を出す。


 5部はアルチンボルディの成長物語であるにもかかわらず、彼自身の内面はほぼ掘り下げない。ある意味そこは徹底している。アルチンボルディの心情がある程度分かる内容としては、アンスキーを殺した人間にはなりたくないこと。妹のロッテを大切に思っていること。アルチンボルディの小説の出版社の社長夫人で後に社長となるフォン・ツンペ男爵令嬢にあこがれと友情を感じていること。妻インゲボルグを愛していること。小説家になろうとしてなったこと。こうして列挙するとなんと素朴なことか。訂正しよう。アルチンボルディの内面は書かれていないのではなく、書かれているとおりに素朴なのだ。
 わたしはここで断言したいのだ。アルチンボルディは聖人でも英雄でもないが、歴史の嵐に左右されない素朴な倫理を持ったヒーローなのだと。この倫理とは法律以前の倫理、ボラーニョに言わせれば、臆病者にも人喰いにもならないということである。それは複雑に入り組んだ地獄である戦争の20世紀とグローバリズムの21世紀の世界にあっては、宇宙人のように異質な人間像でもある。

 5部の最後20ページ余りは突如アルチンボルディの妹ロッテの話になる。ここで、アルチンボルディがサンタテレサに向かう理由が連続女性暴行殺人事件の犯人として刑務所にいるロッテの息子で自分の甥のハース・クラウスを救うためであることが明かされる。
 そして、出発前夜、アルチンボルディは公園のテラスでピュックラーアイスクリームを食べるのだが、このアイスクリームを作ったピュックラー伯爵の話がその子孫によって語られる。ここは「2666」が探偵小説ならば、その謎解きのシーンとして読むことも出来る。

 ウィキペディアによるとピュックラー伯爵は19世紀ドイツの貴族で、造園家、園芸家、世界旅行者、グルメ、作家で数多くの著作を残した。「社会の旅行者」という著作があるらしい。ドイツとポーランドにまたがる世界遺産のムスカウ公園はピュックラー伯爵が30年間関わり続けた庭園で、第二次大戦で被害を受け、戦後国境で分断されるが、現在も修復作業が行われている。
 ピュックラー伯爵の子孫は語る。彼の著作のほとんどは旅行記で、必ずしも人の役にたつようなものではなかったが、とても明晰な小さな本で、その本を読むと彼のそれぞれの旅の最終目的はある庭園を調べることだったのではなかったかと思うと。
「ときには忘れ去られ、神の手から離れ、運命に流されて行く庭園、もっともそのすばらしさを我が高名な先祖は茂みと怠惰のなかに見出すことができたわけです」。彼も人間につきものの浮き沈みとは無縁でなかったはずですが、彼なりにつましくはあるがきれいなドイツ語の散文で不正に対して声をあげていたのです。「幸福については一言も書きませんでしたが、私が想像するに、彼は幸福をとても私的な何か、たぶん、厄介で捉えどころのないものだと見なしていたからでしょう。」
 そして現在、ピュックラーの名はチョコ・バニラ・イチゴの三層のピュックラーアイスで知られることとなる。ピュックラー伯爵の子孫は言う。
「後世への伝わり方は実に謎めいています。そう思いませんか?」

 このピュックラー伯爵についての言説はそのままアルチンボルディの書物を示唆しており、さらに「2666」という小説自体、ひいてはボラーニョ自身の創作に込めた思いも暗示しているとわたしは思う。この最後のページにいたり、わたしの中でピラネージの描く牢獄のように思っていた「2666」の全体像が、何というか、ガウディのサグラダファミリアみたいなものに反転した。この衝撃は、いうなれば、これまでさんざん殴られ続けて地獄を見せられた挙句、突如全く想像していなかった鈍器が場外から飛んできてとどめを刺され天国に送られた感じであろうか。

 確かに、あとから思い返せば、「2666」は、その世界の異常さに反して、抒情的に美しい場面が突如としてあらわれることも何度もあったし、主要登場人物たちは真面目で正直な人が多かった。例えば、ノートンとモリーニ、フェイトとロサ、エルビラカンポス院長とフアン・デ・ディオスマルティネス捜査官、アルチンボルディとインゲボルグといった恋人たちは、愛することに関して時としてストレートな感性を持っていたし、千里眼のフロリータ・アルマーダ、記者のセルヒオ・ゴンザレス、下院議員のアスキナ・エスキベル=プラダなどの登場人物たちは、惨事に対して悼み、時には不正に立ち向かい、愛する者を守るために逃げる、というかなり率直な行動をとっていたではないか。
 それから、ウィキペディアによればピュックラー伯爵86歳の最後の日記には以下のようなことが書かれていたらしい。
「芸術は、生活の中で最も気高い。人類の利益のために芸術がある。そのために、私は強さを持ち、長い寿命を持っている。」
 これは、80歳を過ぎてなおインターネットを使いこなし世界を股にかけて甥を助けに向かうアルチンボルディ像そのものではないか。
 死を目前にしたボラーニョが創った不滅のヒーロー「ベンノ・フォン・アルチンボルディ」。


 ここで再度1部をパラパラとでもよいので読んでみることをお勧めする。なぜならこの「批評家たちの部」が、「アルチンボルディの本に何が書かれていたのか?」という問いに対する答えを最も雄弁に語っており、同時に「後世への伝わり方」についてのボラーニョの望みが書かれていると思うからで、この部に戻って来ることで地獄の物語に隠されたもう一つの物語の円環がピタリと閉じるように感じるのである。

 5部でライターが、占い師のおばあさんに名前を変えるように言われるシーンがあるのだが、それと同時に彼女は「イギリスの探偵小説に出てくるようなバカな真似をしちゃいけないよ」と助言する。「ドグマのことさ。それを要約するとこういうことだ。犯人は常に現場にもどる。」
 この「ドグマ」という言い方にずっとひっかかっていた。これはアルチンボルディが大戦中ユダヤ人の殺戮を行ったザマ―の殺害から今度は連続女性暴行殺人事件の起こるサンタテレサに向かう事を当然暗示するだろうが、同時に、ボラーニョ自身の「ドグマ」 ― 「2666」をアルチンボルディの読者であるペルチエから始めて、読者であるペルチエにもどっていくことのヒントでもあったに違いない。

 ボラーニョは「後世への伝わり方」にこだわるが、「2666」が遺作であればなおさら、はかり知れない切実さがあったに違いない。ここで1部に登場するモリーニとノートンの間で共有されるエドウィン・ジョーンズという画家の存在が浮かび上がる。
 エドウィン・ジョーンズは自分の利き手を切断して防腐処理を行い自分の書いた絵に張り付けた作品で一躍伝説の作家となる。この伝説のために彼の他の作品の価格も高騰し、彼の活動していた地域はアートの聖地の様相を帯び、今は話題のスポットとして再開発されている。しかし、その後、本人は発狂したとみなされ精神病院に送られ入院している。(大変失礼な連想かもしれないが、わたしはこのエドウィン・ジョーンズの伝説の作品を、ボラーニョが文学的創意によって悪質な加工をほどこしたジャスパー・ジョーンズの作品のパロディのように感じた。)
 イタリアのアルチンボルディ研究者のモリーニは、イギリスのアルチンボルディ研究者のノートンが精神的窮地に陥っているという悪夢を見たことで、彼女を救うために車椅子の病身を押してロンドンにやって来るのだが、そんなこととはつゆほども知らないノートンは、友人との食事中の何気ない話題のつもりで、このジョーンズの話をする。「この話、どう思う?」と問われ、モリーニはその場で泣き出したいような失神して椅子から崩れ落ちもう目覚めたくないような気分になるが、なんとかこらえて「まったく驚きだ」と答える。
 後日、モリーニはノートンには告げずにジョーンズのいるスイスの精神病院に行き、どうして自分の手を切り落としたのか彼に直接尋ねる。ジョーンズはモリーニに「あんたは私に似ていると思わないかね?」と逆に尋ねる。「いいえ、僕は芸術家ではありません」とモリーニは言う。おそらく、そんな風にはなりたくないという意味で。ジョーンズは言う。「わたしも芸術家じゃない」それは文字どおりの意味で。そのセリフは、ボラーニョがジョーンズを芸術家では無いと考えているという意味でもあり、「2666」は手を切って張り付けた自画像では終わらないとの意図も込められていると考えるのは飛躍のしすぎだろうか。
 そのあと、ジョーンズがモリーニに何と答えたかは描かれていないのだが、モリーニはそれが「お金のため」だったと結論付け、それをノートンに直接会いに行って告げる。「彼は投資、資本の流れというものを信じていたからだ」と。
 最初に読んだときは全く気付かなかったのだが、これらのやり取りは、憂鬱と倦怠の迷路に迷い込んでしまったノートンを救いだすためにモリーニがエドウィン・ジョーンズと対決する旅に出て帰還するという構図になっている。ボラーニョは、ノートンをめぐる恋愛ゲームに熱中していた同じくアルチンボルディ研究者のペルチエとエスピノーサが、それぞれ自分がユリシーズで、モリーニを神の逆鱗に触れ船が難破して死んでしまうユリシーズの忠実な友エウリュロコスのように思っていたと書いているが、実はモリーニこそがユリシーズであったことが後にわかるのである。
 その後、ジョーンズが亡くなったと知ったことがきっかけとなり、ノートンは呪いが解けたようにモリーニのいるイタリアに向かい、自分がほんとうはモリーニを愛していたことに気づく。

 ノートンの人柄についてボラーニョは次のように書いている。最初に読んだときは味も素っ気もない文章としか感じず、ほぼ読み飛ばしていたのだが、2度目に読むこの文章は意味深長であり、ボラーニョがこのような人物を愛していたのではという想像すらさせる。
「(ノートンは、)『目標を達成する』という言葉よりも『生きる』という言葉を、まれに『幸福』という言葉を優先した。ウイリアム・ジェイムズが信じたように、もしも意欲が社会的要請と関係があるなら、それゆえ禁煙するより戦争に行くほうがたやすいとしたら、リズ・ノートンに関しては、戦争に行くよりも禁煙することのほうがたやすいと考える女性であると言えただろう。」
 1部の最後でノートンは、アルチンボルディを探してサンタテレサに行ったままいまだ帰ってこないペルチエとエスピノーサにメールを送る。
「わたしたち(ノートンとモリーニ)の関係がどれほど長く続くかはわかりません。モリーニにとっても、わたしにとっても、それは大したことではありません。わたしたちは愛し合っていて、幸せなのです。あなたたちには理解してもらえるとわたしには分かっています。」

 この本の多くの読者と同じく、彼ら2人はモリーニとノートンが相思相愛だったことには全く気付いておらず、突然のメールの内容に茫然とする。
 ペルチエはそのすぐ後から再びアルチンボルディの本の読書に没頭して何日かを過ごす。エスピノーサが気づくとペルチエはいつもアルチンボルディの本を読んでおり、持ってきた3冊のアルチンボルディの本を何度も読み返している。一度、エスピノーサはペルチエの姿が見えなくなったとき、彼が自殺したのでは心配するが、ペルチエは自室のベットで気持ち良さそうに眠っており、目覚めると、夢の中でギリシャにいて一日中海に潜る少年(それはライター少年だと思うが)と友達になっていたとエスピノーサに告げる。そしてついに2人はサンタテレサから自分たちの場所に帰ることにする。
満天の星空の下、ペルチエとエスピノーサは散歩しながら話す。

「信じてくれ」とペルチエはそのとき吹いていた、すべてを花の香りに染める微風に似た、とても穏やかな声で言った。
「アルチンボルディがここにいるって分かるんだ」
「だったらなぜ僕たちは見つけられなかったんだ?」
「それは大したことじゃない。僕たちが間抜けだったから、さもなければアルチンボルディは身を隠すのにおそろしく長けているからだ。それはささいなことだ。重要なのは別のことなんだ」
「何だい?」
「彼がここにいるということだよ」
「信じるよ」とエスピノーサは言った。
「アルチンボルディはここにいる。そして僕たちもここにいる。僕たちが彼にこれほど近づくことはなかったし、この先もないだろう」

 ボラーニョは自身の作品をこのように読まれたいと、読者が本の中に生きている何ものかを発見し、それが次の種子となることを切望したに違いないと思うのだ。これがボラーニョのドグマであったとしても、わたしは甘く切ないこの「批評家たちの部」のラストが好きだ。「2666」は、それがどんなに巨大で空虚な地獄の建築物に見えたとしても、厄介で捉えどころのない「幸福」が、ハッカの香りの風を感じるようなアルチンボルディの本が、隠されている小説なのだから。



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▲ピュックラーアイス
















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# by hipoiho | 2017-05-05 14:05 |

2017.4.16 醍醐寺ー毘沙門堂

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# by hipoiho | 2017-04-30 22:39 | 見聞