この日は素晴らしい晴天で景色がとても綺麗だった。
実際、綺麗すぎた。
この旅行の間、せっかくなので普段あまり読まないそれっぽい本を持って行こうと「金剛般若経」の現代語訳がついた薄い文庫本を買った。
旅行中、少しづつ読んでこの日読み終わる。
哲学として読むには、わたしには難しすぎたし、教えとして読むには、わたしに教わる気持ちがなさ過ぎた。しかしながら、優れたテクストというのはどんな読み方も許してくれるものである。戯曲のように読めた。
本の中では、釈迦とその弟子のスブーティ長老が自分たちの教えが途絶えた先の未来にも必ず菩薩が現れて道を示すという様な会話を繰り広げるのだが、わたしの中では、なぜかベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」が思い出された。(ちなみに、「ゴドーを待ちながら」は2人の浮浪者が、会ったことの無いゴドーという人物の噂をしながらゲームなどをして時間を潰し待ち続ける話。)
戯曲として読んだそれは、「ゴドーを待ちながら」の淡々と続く「絶望と不条理の世界」を淡々と続く「喜びと不条理の世界」に置き換えたもののように感じた。この本の中では世界は不条理なままだが、キラキラした未来への信頼と喜びに満ちている。
本を読み終えて、朝に見たキラキラの巨大な弥勒菩薩像をぼんやり思い出した。なんでも、弥勒は56億7千万年後にこの世界にやって来て、人々を救うらしい。